嵩上げには土が要る、そして土地の無い地域で高台に住むためには、山を削らなければならない!!!!。という機運になっていってというか作られた感満載ですけど。ばんばん山を削り、低地に運び、盛り上げる。そういう作業で毎日を過ごしているみなさまには感謝しかありません。
人間は命あってのモノダネ。命あるからこそ、次への希望が生まれる。
古い話になってしまいますけども、うちの母なんていまだに恨みつらみが多いのですね。茶の間のテレビ受像機も、キッチンの冷蔵庫も波に足を取られてプカプカ浮くぐらいの被害を被ったのに、ただの半壊ですから。しかも中も確認してなくて外から見ただけらしく。というより、どこでどういう判定をしたのかさえ知りませんから。
それと、別の街に住む親戚筋は、たいして被害も無かったのに、何度も行政を呼びつけて大規模半壊に判定を覆させたらしく、自治体間の対応の差も気に入らないみたいなのですよ、人間として当たり前すぎて普通の話ですけど。
山を削りまくって、ようやく宅地が整備されて、家も建ってきてるのですけど、その袋やら端材やら粉みたいのがばんばん降り注ぐわけですよ。風も強くなってめんどくさい上に、そういった余計なものが降ってきて、洗濯物も車も汚れるし。そういったことは、どこのメディアにも出ないわけね。それが現実。
新造宅地も、角っこは大変みたいですよ。とにかく土地の形を変えたからか、風が強い日は滅法強い。なけなしの財産で移った以上、もう離れるわけにもいかないし。
古い記事なのでその後どうなったかわからないのですが、こんな記事が出てました。
こういうのも不平等感満載ですねぇ。
困ったものですが、解決の方法がない、と思うのですがどうでしょう。民事裁判なんてやってもどうにもなりませんよ、おそらく。
この記事中にもあるとおりですけども、所有地の一部だけを接収するというのもよく聞くんですよね。1/4をとられて、3/4をどう使うかっていっても津波で流されてる場所だし、どうしたものかってなりますね。
うちの実家の近所の方でも、土地の一部だけが道路か何かになるために買い取られてしまうらしく、残った土地をどうするかで困ってるみたいです。
不条理なわけですよ、不条理なんてそうそうなさそうなのに。
いのちの石碑もですねー。
理念としてはなんの反対する道理もないのですけど、すんごい気になる点=突っ込みどころは山ほどあるし。困ったものです。周りの指導する大人がどうなんだろうとは思いますけども。
どうでもいいとこからいきますけど。。
碑文がおかしい、と僕は思っているという、それだけのことですけど。
将来の被害をしっかり減らすため、とことんまで議論してきたのでしょうけど、碑文、おかしくないですか??そーゆーのすんごい気になるたちなんですよ。
碑文全文はこちらに拠ります。女川桜守りの会の中のいのちの石碑プロジェクトに関するページ、その碑文はこちらです。
「これから生まれてくる人たちに、あの悲しみ、あの苦しみを、再びあわせたくない!!」
う~ん、意味は通らないことはないけど、こういうのすんごい気になるのですね。簡潔に書くとこうなります。「これから生まれてくる人たちに、XXを、再びあわせたくない!!」
おかしいじゃん。おかしいよね??。さらに簡潔にすれば「Aさんに、Bをあわせたくない」。となり、なんなんだろうなと思えてきます。中学生じゃないですよ、中学生は子供だし、周りの大人はこんなことも指摘しないのでしょうか。
**ここから、2015/2/28追記(一晩考えちゃいました..)**
こんな感じでどうでしょう??
「これから生まれてくる人たちに、あの悲しみ、あの苦しみを、再び味わわせたくない!!」うーん、味わうだと今一つかな。
「これから生まれてくる人たちを、あの悲しみ、あの苦しみに、再び遭わせたくない!!」まぁまぁ。
「これから生まれてくる人たちに、あの悲しみ、あの苦しみを、再び遭わせたくない!!」あれ??「遭う」だとすればこれでいいのか??。でも、「あなた『を』危険な目『に』遭わせたくない」がスムーズだと思うんだよね。
「これから生まれてくる人たちを、あの悲しみ、あの苦しみに、決して遭わせたくない!!」これぐらいが良さそうな。。でも、遭わせたくないという場合、「辛い『目』に」というように目を使うんじゃないかと思うんですよ。となると、「これから生まれてくる人たちを、あの悲しく、あの苦しい目に、決して遭わせたくない!!」なのかな。そこは国語の先生に確認してもらえばよいと思います。
**ここで、2015/2/28追記終わり**
他にもあります。
ここより高いところに逃げろはいいけど、次はどこまで到達するかわからないのが事実です。倍になるかも3倍になるかも。そうならない保障はゼロだし、変な安心感を与えている(これより上なら大丈夫みたいな..)、とも言えるのではないでしょうか。次は1000年後だっていう予断を与えているのも問題に思います。明日かもしれません。宇宙の歴史からしたら明日も1000年後も同じですし。
それから、どうしても残してきた人が心配で戻って流された人の心情を理解してないとも思うのです。戻らずに自分だけ生き残って、家族が死んで悔やみまくってる人もいるかもしれません。そういう人をどうするんだろう。
これがまた気になる存在なのですよ。被災した。避難所や仮設住宅に入った。でも、勉強したくても、狭い住みかだから、他の音も気になるし、自分の音や明かりも気にしないといけない。だからこっちで勉強すれば??っていうことだったと思うんだけど。
でもでも、これすでに塾じゃないでしょうか。私塾です。会費も取ってるし。サッカー部とかの子達は、通えないし、つらいよなー。がんばってんのにな。。
ま、自習できない環境の子供に環境を作ってあげてる間は良かったと思うんですよ。でも、すでにここに通ってる子たちが、志望校にどれだけの率で受かってるかってことにシフトしてるわけですよ。
小学1年生が初登校とか言ってますが、そんな必要あるのかなぁ。学校でもないところに初登校だっていうのも変な感じだし。
でもまー、こんなことはどうでもいいのです。問題は、このような活動を支援する方々がいるということでしょうか。表彰しちゃうし。あなたたち小学校の存在意義がないようにも見えるのですけども。
私塾がなくてもきちんと教えて理解させないといけないし、それができないからあとはよろしくーって、なんだろう、どうしようもないように見えます、ほんと。
クラウドソーシングというのがあって、簡単にいうと、ネットで仕事をしてくれる人を募集し、やれる人が受けて、お金をやりとりする、という仕組み。
そういったクラウドソーシングで働く人たちを呼び込もうという計画があるようです。田舎暮らしの希望調査もしているようです。
こんな片田舎に引っ越してくる人って、自分でどこにいても稼げるっていう人たちなんですけど、それを呼び込もうっていうのには反対の理由はないですよ。でも、どうやってそれを実現するのかですよね。
ただ補助金があるからとか、復興予算が下りそうだからとか、そんなのが出てる感じがしてますけども。
まず、来る理由がないです。なんで女川なのか?!沖縄でもバリ島でもいいのに。そこに訴えるものがなければ先がないでしょう。当たり前のことですよね。
住宅がただだとか、税金が安いだとか、ネット接続無料とか、そういう何らかのメリットがないと来てもらえない気がします。そこのところが曖昧になってると、来てくれたとしてもたまたまとかになりそうなそんな予感がします。
次はギター製造です。女川でギターを作るというのがあるんですよね。いい楽器できるのかどうか。買ってもらえるのかどうか。被災地かどうかなんてこれから先は関係なくなるし、お情けで買ってもらっても仕方ないですし。世界で売れるものになるのでしょうか。
これはまったく予想ができません。ギターについて知らな過ぎるし。
ギターのような楽器は、まず材質なんじゃないかなとは思います。女川や県内の杉か何かを材料にして何かいいことがあるんでしょうか。楽器に携わる人であればあるほど、気になる点だと思いますが、そこがわかりません。ネット情報では、日本の杉はギターに向かないと書いていたりもします。
日本では、シダーといえる杉はヒマラヤスギだけらしいですね。ローズウッドだマホガニーだ、趣味の世界の人の目は厳しいでしょう。
『近い将来、「ギターの町 女川」として多くの人が訪れ、町中に音楽が溢れ、そこに住んでいる人の生活を豊かにすることでしょう。』という発言ですが、実現するかどうか見ていこうと思います。
ここまで書き連ねてきましたが、悪く言うだけで、対案もないじゃないかとか、批判される点は多々ありそうです。また、一面的な見方をしている嫌いはありますし、表面的な情報をまとめてるだけかもしれません。ですが、つまりは、お金が使えるような状態になっていて、そこに様々な人が集まってくるということに懸念を持っているということなのです。
こういう本が出ているのですが、被災地にお金が出て、それで何かをするというところに、あれこれ計画を提案してくる人たちがいるのですね。
仙台空港にカジノ、とか。別に実現できそうかなんて関係なくて、ただ、お金を引き出したいだけ、です。そこがNoといえば、別の自治体にちょっとお色直しをするか、何か別の提案を持っていく。
そういった、怖さがあります。
NHKで取り上げてましたが、復興予算は被災地のために使われるのかと思っていたら、沖縄の国道や、半捕鯨団体の対策費になったりしてました。どうも、最初から被災地以外に使う想定だったようで、そういう解説記事が出てます。
予算が取れそうだとなれば、何かにそれを使おうとする人が集まってくる。それだけのことではありますが、そういう欲深い人たちに踊らされ掻き乱される人たちも多くいることでしょう。
出島に橋を掛けるようです。
病院や学校の問題もあり、橋があればすぐに本土に行けるのですから、買い物も便利になり、緊急時も助かる。外から客も来るだろう。
でも、ほんとうにそうなるかどうかわかりません。
ところ違えば結果も違うかもしれませんが、沖縄では、離島に橋をかける工事が次々になされており、事例として興味深いものになっています。
沖縄・奄美の小さな島々での、若者の言葉が重いです。「橋が繋がったら、若者は島を出て行きました。昔はお盆で島に帰るのも2泊3日必要だったけど、今はウークイ(旧盆の最終日)だけ帰って、半日で島を出てしまう」。他にも橋が架かりリゾート化を目指したものの頓挫した話など何かと大変なのです。
地球の裏のマヨネーズでは、ちょっとだけ、石巻の網地島について書かれています。「島の人が殆ど誰もいかないような静かな入り江にびっくりするほど立派な堤防とその先にずらりと要塞のようにして波止めブロックがはりめぐらされているのを見て驚いたことがあった」。
九州の壱岐島については「驚いたのはその漁港の数の多さであった。ちょっとした岬をまわると必ずといっていいほど漁港がある。(中略)漁業は不振でも工事が沢山あればそっちの関係者は確実に潤っているのだろう」。
石巻に話を戻します。地盤沈下したので、岸壁を元の高さまで嵩上げして復旧したところ、だんだんと隆起してきてる港も多数あります。鮎川漁港では干潮時の海面から岸壁の高さが2mにもなるそうで、作業に多大な支障が出ているわけです。
隆起は今後も続くと予想されます。だいたい数十年で元の高さに戻るらしいです。
終盤は、あれこれ話が飛んでしまってますが、できるだけ詰め込みたかったので、こうなりました。理路整然とした文章にならず、読んでいただいた方には申し訳ないです(書いた後にろくに推敲もしないからなんですけどね)。
人というものは浅はかなものです。だから様々な矛盾が生じてきます。そして矛盾が生じても対応はしなかったりしてます。そういう中では、注意深く興味深く見続けるしかないです。
以上